昨日、社内木鶏会を開催しました。
今月も商社マン、銀行員、取引先の社長様とお客様がたくさんお見えになりました。
この木鶏会のよい所は、喜びや感動、つらい話も含めた実体験のコミュニケーションがとれる事です。
社員の1人1人と深い話ができるのは、この会があるおかげです。今月のチームは特に深かった・・
今月号の特集は「立志照隅」---志を立て、自分のいる場所を照らす、換言すれば、その場になくてはならぬ人になる、
という意味だそうです。
今月号の数ある話しの中からアルメックが選んだテーマは
●老舗料亭復活に懸けた我が志 京都吉兆社長 徳岡邦雄
●いただいた命を最後まで生き抜け 曹洞宗長寿院住職 篠原鋭一 です。
文中の吉兆の社長の言葉に
組織に必要のない人は淘汰されるか、自分から離れていきます。だから、いつも社員のみなさんには「必要とされる事を目指すことが大切だ」と言っています。吉兆という組織、そして世の中から必要とされる人になる。そういう人達が集まっていれば、吉兆もまたお客様に必要とされ続けるはずです。私自身も京都吉兆の社長として、仲間に、そして世の中に必要とされる存在であり続けるよう自己研鑽していかなければと心しています。
つまり、今、ここで必要な存在になれ!と説いています。
つまり、今、ここで必要な存在になれ!と説いています。
大切なのは、常に今ここ。
以下は小林正観さん き・く・あの実践より引用です。
お釈迦さまがまわりの弟子たちに、こんなふうに問いかけたことがあります。
「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」
問われた弟子たちは口々にこう答えました。
「私の友人は30歳で死んだので、30年でしょうか」
「いや、私の叔父は50年生きたので、50年ではないでしょうか」
「いや、私の祖父は70歳まで生きたので、70年だと思います」
「いや、山の中の仙人が120歳まで生きたという話を聞いたので、120年ではないでしょうか」
お釈迦さまの答えは、次のようなものでした。
「いや、どれも違う。人間の一生とは、刹那、刹那、この一刹那の長さだけだ。」と。
一刹那とは、拍手を1回した中に65刹那くらい入っている、それぐらいの長さだそうです。
その刹那というのは、つまり、一瞬ということですが、この一瞬、一瞬が人生の長さなのだそうです。
明日という日は永遠にこない、今日寝て起きたら、今日なのです。
読んだ時、ちょっと衝撃的でしたが、なるほど! とスグに思い直しました。
「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」
問われた弟子たちは口々にこう答えました。
「私の友人は30歳で死んだので、30年でしょうか」
「いや、私の叔父は50年生きたので、50年ではないでしょうか」
「いや、私の祖父は70歳まで生きたので、70年だと思います」
「いや、山の中の仙人が120歳まで生きたという話を聞いたので、120年ではないでしょうか」
お釈迦さまの答えは、次のようなものでした。
「いや、どれも違う。人間の一生とは、刹那、刹那、この一刹那の長さだけだ。」と。
一刹那とは、拍手を1回した中に65刹那くらい入っている、それぐらいの長さだそうです。
その刹那というのは、つまり、一瞬ということですが、この一瞬、一瞬が人生の長さなのだそうです。
明日という日は永遠にこない、今日寝て起きたら、今日なのです。
読んだ時、ちょっと衝撃的でしたが、なるほど! とスグに思い直しました。
刹那主義という言葉は、今はどちらかというと、いい意味ではなく、その場だけ楽しければ良い、
みたいな感じで使われていますが、本来はこういう意味なんですね。
今、ここ・・・
このテーマで、大好きな話があります、松原泰道さんの「喫茶去」です。
こちらも 致知に掲載されたものです。
次回ご紹介します。
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