2011年1月31日月曜日

喫茶去―松原泰道・南無の会会長 致知2009年5月号

全力を尽くしている限り 人生に無駄はない
中国は唐の時代、禅僧・趙州和尚(じょうしゅうおしょう)のもとに、一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、
「あなたはここへ初めて来たのか?」
と問うと、僧は答えて、
「はい、初めてまいりました」
すると趙州和尚は言いました。
「喫茶去(きっさこ)」(お茶でも召し上がれ)
趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。その僧は、
「いえ、以前にも伺ったことがあります」
と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。
「喫茶去」
このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が趙州和尚に尋ねます。
「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」
すると趙州和尚はまたしても、
「喫茶去」
と答えたのでした。
禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を表面的に捉(とら)えると解釈を誤ります。喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、以前ここへ来たことがあるのかと、未来でも過去でもない、「いま、ここ」を問題にしているのです。「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。
お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。お茶を飲むことだけではありません。ご飯を食べること、衣服を着ること、そうした日常のすべてが、そのまま禅なのです。
多忙な現代人は、食事もお茶も、他のことをしながらいただいて「ながら族」になりがちです。しかし、何事も「ながら族」ではいけません。お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、ただそのこと一つに徹してすることによって、人生の受け止め方も違ってくる。喫茶去とは、そのことを説いているのです。
自分は回り道をしているとか、自分の本当の仕事は別にあるとか、何事も一時の腰掛のつもりで手を抜いてやっていると、必ず悔いが残ります。しかし、どんな仕事であれ、その時に全力を尽くしてやったことは、後で必ずプラスになって返ってくるものです。全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。これは、私の長い人生から得た持論です。
自分のことだけでなく 人様のしあわせを願う
茶は日本人の間で大変愛されてきました。室町時代、珠光(じゅこう)によって創始された茶の湯の作法は、長い時をかけて洗練されてきましたが、ただ一つ貴重な無駄が遺(のこ)されています。柄杓(ひしゃく)で茶碗(ちゃわん)に注いだお湯の残りをわざわざ茶釜に戻すでしょう。そこに込められた意味を教えてくれるのが、道元禅師の逸話です。
道元禅師は、毎朝永平寺の近くの川まで水を汲()みに行くのですが、柄杓で汲んだ水を必ず半分くらい川に戻してから寺に帰られました。川には水が潤沢に流れていますから、わずか半杓の水を戻したところでそれが何になると思われがちです。しかし道元禅師はその行為を通じて、下流の人に福がもたらされるように願っていたのです。自分のものを分かち合うことで、人様のしあわせを願う思いやりの行為だったのです。
お茶からはいろいろなことを思い出します。
私の従弟(いとこ)は、縁あって私の寺で出家をし、弟弟子になりました。ところが、彼は私もお世話になった岐阜の瑞龍(ずいりゅう)寺で修行中に、陸軍の召集令状を受け取ったのです。
昭和19年秋、名古屋の師団から訪れた従弟(おとうと)の出()で立ちを一目見て、私は彼がこれから出征することを悟りました。果たして従弟が口にしたのは別れの挨拶(あいさつ)でした。
「長い間お世話になりました。これでお別れでございます。どうか兄さん、お体を大事にしてください」
上京の途中で空襲がひどく、到着するまで時間を費やしてしまったので、すぐに帰隊しなければならないというのです。それではあまりにも寂しい別れです。たまたま彼がお茶好きだったことを思い出し、「急いでもらい合わせの精茶の玉露(ぎょくろ)を淹()れるから、詰めていきなさい」と、彼の水筒を引き寄せようとしましたが、彼は「結構です」と言う。私は寂しくなりました。
「兄弟がこれで別れるという時に、遠慮なんかするものじゃない。水筒を出しなさい」
と命じると、
「兄さん、自分は衛生兵です。衛生兵の持つ水筒は、私用に飲むためではありません。怪我(けが)や病気をした戦友のために冷たい水や濃い緑茶の類(たぐい)は毒です。いただけるのでしたら台所に残っている番茶をお願いします」と。
それが今生の別れとなりました。彼が出征したサイパンは、9月18日に玉砕したのです。
たとえ自分の持ち物でも、自分のしあわせのためだけに使うのではなく、人様と分かち合う。そうしたたしなみが、かつての日本には軍隊にまで浸透していました。
私たちも、こうした相手を思いやる気持ちを持ちたいものです。これは人にお茶を勧める時も同様です。ただ形式的にするのではなく、相手のしあわせを念じてお勧めしてこそ意味があるのです


この話をよんで思い出したのが
鍵山秀三郎の本で、“与えられた枠を目一杯つかわない”という教えです。
自分のことだけでなく、人様の事も考える、という点で共通していると思います。
例えば、時間を例にすると、30分のチャンスを頂いたら、20分とか25分で失礼する、たとえ5分でも超過はとんでもない事だそうです。30分の枠を頂いたら、少し余裕をのこせば先方は次回も会ってくれるが、35分や40分と時間を超過するような事があれば、次はあってもらえない、と・・

時間や予算は、本当にこの通りですよね。

“与えられた枠を目一杯つかわない”
周囲への心配りの原点ですね。

2011年1月26日水曜日

社内木鶏会開催しました

昨日、社内木鶏会を開催しました。

今月も商社マン、銀行員、取引先の社長様とお客様がたくさんお見えになりました。
この木鶏会のよい所は、喜びや感動、つらい話も含めた実体験のコミュニケーションがとれる事です。
社員の11人と深い話ができるのは、この会があるおかげです。今月のチームは特に深かった・・

今月号の特集は「立志照隅」---志を立て、自分のいる場所を照らす、換言すれば、その場になくてはならぬ人になる、
という意味だそうです。

今月号の数ある話しの中からアルメックが選んだテーマは
●老舗料亭復活に懸けた我が志 京都吉兆社長 徳岡邦雄
●いただいた命を最後まで生き抜け 曹洞宗長寿院住職 篠原鋭一  です。

文中の吉兆の社長の言葉に
組織に必要のない人は淘汰されるか、自分から離れていきます。だから、いつも社員のみなさんには「必要とされる事を目指すことが大切だ」と言っています。吉兆という組織、そして世の中から必要とされる人になる。そういう人達が集まっていれば、吉兆もまたお客様に必要とされ続けるはずです。私自身も京都吉兆の社長として、仲間に、そして世の中に必要とされる存在であり続けるよう自己研鑽していかなければと心しています。 
つまり、今、ここで必要な存在になれ!と説いています。

大切なのは、常に今ここ。


以下は小林正観さん き・く・あの実践より引用です。 

お釈迦さまがまわりの弟子たちに、こんなふうに問いかけたことがあります。
「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」
問われた弟子たちは口々にこう答えました。
「私の友人は30歳で死んだので、30年でしょうか」
「いや、私の叔父は50年生きたので、50年ではないでしょうか」
「いや、私の祖父は70歳まで生きたので、70年だと思います」
「いや、山の中の仙人が120歳まで生きたという話を聞いたので、120年ではないでしょうか」
お釈迦さまの答えは、次のようなものでした。
「いや、どれも違う。人間の一生とは、刹那、刹那、この一刹那の長さだけだ。」と。
一刹那とは、拍手を1回した中に65刹那くらい入っている、それぐらいの長さだそうです。
その刹那というのは、つまり、一瞬ということですが、この一瞬、一瞬が人生の長さなのだそうです。
明日という日は永遠にこない、今日寝て起きたら、今日なのです。





読んだ時、ちょっと衝撃的でしたが、なるほど! とスグに思い直しました。

刹那主義という言葉は、今はどちらかというと、いい意味ではなく、その場だけ楽しければ良い、
みたいな感じで使われていますが、本来はこういう意味なんですね。

今、ここ・・・

このテーマで、大好きな話があります、松原泰道さんの「喫茶去」です。
こちらも 致知に掲載されたものです。
次回ご紹介します。

2011年1月25日火曜日

そ・わ・か

先日、大須の電気屋さんで、会社で使う加湿器を購入しました。
そこの社長さんが、私に
「ブログ読んでるよ、“そわか”為になるね~、早速トイレ掃除したらなんだか気持ちいいわ!」
「大光院もお参りに行ってくるね」って言ってくれました。
読んでもらえるだけでも嬉しいのに、
実践して下さる方がいるなんて・・・
嬉しいご報告、させて頂きました♪

2011年1月24日月曜日

宇宙の法則




正観さんの茶話会に行ってきました。
宇宙の法則の一つに
「なげかけたものが返ってくる、投げかけないものは返ってこない」
というものがあります。
笑顔に囲まれたいなら、周囲に笑顔をなげかける。
温かさに囲まれたいなら、周囲に温かさを投げかける。
優しさに囲まれたいなら、周囲に優しさを投げかける。
今の自分がおかれている状況は、
過去に自分が投げかけたものの集積。
つまり、全部自分の責任。
人を動かすには、
①軍事力・・・高圧的に言いつける
②掟・・・・・・・ルールで縛る
③徳・・・・・・・「あの人の言う事なら」と思わせる
の3つがあるそうですが
徳があれば、なんでもスムーズに運ぶそう。
“あの人は徳がある人” と言ったりしますが
徳の人あるとは、良い投げかけをしてきた人の事だそうで
このような人の発する言葉には
「あの人のためなら!」 と
自分が走り回らなくても、周りが何でも進めてくれちゃうそうです。
イギリスの哲学者の言葉にも
 人は穏やかになればなるほど
 より大きな成功
 より大きな影響力
 より大きな権威を手にできる
とあります。
徳のある人はきっと、周囲を全部味方にしてしまうのでしょうね。
そういえば、こんな事も・・・
本当の無敵とは、
敵を全てなぎ倒した人の事をいうのではなく
敵がもともと存在しないこと
出会う人、全てを味方にしてしまう人の事なんですよ。
何があっても、不平不満愚痴を言わず
 た行  淡々と
 な行  ニコニコと(^^)
 は行  ひょうひょうと
 ま行  黙々と
心の勉強は本当に奥が深いですね。
うれしい、幸せ、愛してる、大好き、ありがとう、ついてる♪
自分の口から出てくる言葉が喜びと感謝に満ちていると
それ自体が自分の体にとってエネルギーになると同時に
その言葉を聞いた周りの人をも元気づけるのだそうです。
今の自分がおかれている状況は、
過去に自分が投げかけたものの集積。
うれしい、たのしい、しあわせ の投げかけをしなくては(^^)
「幸せ」の語源は、本来は「為し合わせ」ですが、
他にも、「師合わせ」という人もおり、
心の師を持つ事が、幸せ。という解釈もあります。
人生と心を豊かにするものは
旅行、人の話を聞く、読書 の3つ。
行動半径の広さ = 人格の広さ だそうです。
今年もたくさん聞きに出かけて、たくさん読みます!
ありがとうございます。